今回は、障害者の就労移行支援をしながら、スタッフの育成でも活躍している恒吉麻実子さんにお話をお伺いしました。
事業所での支援だけではなく、様々な研修やイベント、学会で発表など「1家庭1ソーシャルワーカー」というビジョンを掲げながら、ソーシャルワークを楽しむ恒吉さんのキャリアをご紹介します。
実践的で、生活に密着しているソーシャルワークとの出会い
ー恒吉さんは最初から福祉分野ではなくて、大学では心理学を学んでいらっしゃったんですよね。
そうです。地元は宮崎で、大学に行くことは決めていて、心と身体の関連性を学びたいと思って迷わず心理学を学ぶことに決めていました。
自分自身の体調不良の経験からの興味で、色々と大学を調べる中で、臨床心理、教育心理は違うな・・と探していって、東京まで出るのは怖いな、福岡にはないな、と絞り、大阪の大学に行きました。
その大学で行われている研究なども調べて、ここでなら自分がやりたいことを学べるなと思ったんですよね。
ーそのころから、自ら情報を取りに行って学ぶスタイルがあったんですね!実際に心理学を勉強してみていかがでしたか?
大学での勉強はすごく楽しくて、授業も積極的に受けて、シラバスを見て単位取得に必要のない授業も履修していました。ただ、自分の漠然とした興味関心として勉強していたこともあり、大学の研究テーマを絞ること、研究として何かを追求していくモチベーションは持てず、卒業論文を仕上げてヘトヘトになったので、大学院には行きませんでした。
その当時、進学するにしても臨床心理士は箱の中でカウンセリングする人??というイメージしかなく、ピンとこなかったのもあります。
周囲も公務員や一般企業を受ける友人も多く、就職活動で児童養護施設の求人を受けてみたりしましたが、親から社会福祉士っていうのがあるけどどう?とアドバイスをもらい、卒業後は1年、社会福祉士養成の専門学校に通いました。
その時の学びが、大学よりも面白かったです。大学では研究ばかりしていたので、ソーシャルワークの勉強がより実践的で生活に密着しているように感じました。
自分自身のルーツと重なるような事例の話はヒリヒリすることもあったけど、興味深かったです。
好きとか楽しいを工夫すればいい
ー専門学校を卒業した後の就職先はどうやって決められましたか?
専門学校で行った実習先での出来事が大きな転機になりました。知的障害がある子どもの対応をする心身障害支援センターに行ったのですが、両足でジャンプができない子どもがいたんです。
周囲が両足でジャンプさせようと、あの手この手で試行錯誤していました。ある時、真っ暗の中で光るものを上から吊り下げたり投げたりするという遊びをしていて、その子どもが光に触りたい一心で自ら両足でジャンプしていたんです。
その時、こんな工夫をすれば、説教めいた指導をしなくても、好きとか楽しいを工夫すれば飛ぶんだ!と感動しました。ソーシャルワークの「ストレングスモデル」を目の当たりにしした瞬間です。こういうことをやりたい!そう思い、この道で生きていくことを決めました。
ただ、色々見てもこの仕事はなんでこんなにお給料も低いんだろうとがっかりしてしまう求人も多く、児童分野に就職したかったけれど、最初は就労継続支援B型の施設に就職しました。
でも、職員の指示を受けて障害者が作業をするのが楽しそうじゃないし、しっくりこない感じがしていて・・・そんな時一度は採用選考を落ちた児童相談所から、人員が空いたから今から来ないかと声掛けいただいて、転職しました。
児童相談所は、入ってみるとすごく大変でしたね。辛い経験をした子どもの集団生活は、集団生活は、喧嘩やもめごともあるし大変です。でも、一番辛かったのはそんな子どもたちへの指導として、怒鳴ったり管理したりするような支援の在り方があったこと。その時は、私にはそんな対応ができないから自分の能力が足りないんだと思っていました。
今思えば、そんな自分の心の反応は、自分の愛着の問題もあったなぁとも感じます。1年で辞めて、転職活動を始めました。
ーそこで就労支援との出会いがあったんですね。
はい、結構自由度の高い社会福祉法人に入って、就労移行支援の立ち上げをするというクリエイティブなところがあったのも自分に合っていました。
最初の就労移行支援B型の作業所のイメージが良くなく、あまり大人の支援には興味を持っていなかったのですが、立ち上げスタッフということで、実習の時に感じた「好きと楽しいを工夫する」という自分の価値を大事にした支援を、自分が思うように組み立てて実践することができました。今考えれば、それは「応用行動分析」という理論で説明ができますが、その頃はまだその理論も知らずにやっていましたね。
いい意味でも悪い意味でも自由なところがある職場でしたが、研究発表会みたいなものがあって、自分がやった実践をまとめる、という機会をもらいました。
まだまだ知識も不足していましたが、かなり重度の利用者の方が利用されても、働けるんだろうか?という疑問すら持たず、利用者の方を信じ切って実際に就職できた、という経験をしたのも良かったです。
段々と経験を積んで、もっとレベルアップできる環境で成長できる仲間と一緒に働きたいと思い、転職したのが今所属してる株式会社LITALICOです。
ー私と初めて会ったとき(2013年ごろ)の恒吉さんは、既にLITALICOでいきいきと働いていらっしゃいましたね。
最初は、株式会社だしよく分からない、まず話を聞いてみようと気軽な気持ちで面接を受けました。そこで、今でも尊敬する人事の方との出会いがあり、新しい拠点のスタッフとして入社しました。
最初はマニュアルも今のように整備されておらず大変でしたが、上司から「もっとちゃんと意見を言って」という助言もあり、自分のやりたい理想のサービスを語って実践していきました。
今思えば想いが先行していて周囲の人を傷つけた側面もあったかもしれませんが、言葉にして、社内の実践発表会で優勝し評価されることで、面白いスタッフがいると本社の研修部から声掛けしてもらいました。
最初は現場と研修部を兼務、途中から研修部専属になり、学びのため大学院に通いはじめました。現場から離れることで、見えること・自分の視点が変わったと思います。
自分がやっていることも客観的に見えたし、人に教えるにしても自分の実践経験からの語りだけではなくて、そのスタッフから見えているケース、という視点で捉えてかかわることができるようになりました。
専門職ではないスタッフから「なぜインテークって成育歴から始まるの?」と聞かれて、当たり前でしょ!と思うけど、言語化して伝えていかなければならない。
社内の、ソーシャルワーカーの仲間たちと言語化していく作業は、苦しくもあり、楽しかったです。
研修部から現場に戻って、スタッフの育成に再度かかわった時に、自分が成長していることをすごく感じました。研修部にいたときに現場から離れたことで余裕ができ、自分の成育歴に向き合えたことも大きかったです。自分の主観に惑わされず、アセスメントが上手になったと感じます。
ー恒吉さんが、現場と学びを行き来することでキャリアを作ってこられたことがすごく見えます。今後、やっていきたいことを教えてください。
最近、ハワイでソーシャルワークをしている方から学ぶ機会があるのですが、「日本のソーシャルワーカーは働く場が過酷すぎる」と聞きました。
アメリカでは、どの職場でもスーパービジョンを受けるのがスタンダード。それがなくて日本のソーシャルワーカーが実践をし続けているのはすごいことなんですよね。採用で活躍できる仲間を集めるのも大切ですが、スーパービジョンによって活躍する支援者がもっと増えるのではないか、その世界を見てみたいなと思います。
あとは、学校でソーシャルワークを教えたり、夢でもある1家庭1ソーシャルワーカーというビジョンの実現のために新しいフィールドでもケース実践にも興味がありますね。子どもが生まれて大切にしたいものも増えましたが、ソーシャルワークを通して、価値を共にできる仲間もたくさんできました。これからも良い循環を生んでいきたいです。
▶恒吉さんのスーパービジョンのご紹介
恒吉さんは、スーパービジョンを普及する活動をされています。
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