#06 出口龍之介さん フリーランスソーシャルワーカー

現在、成年後見人やスクールソーシャルワーカーとしてフリーランスソーシャルワーカーの活動をしている出口さん。

高校時代の進路選択ではドキュメンタリー映像をつくるために映像系の学校を志望されていたそうですが、なぜソーシャルワーカーになったのか?これまでとフリーランスの活動について伺ってみます!

友人の行った大学に潜り込んだ

福祉の世界に入ったのは、希望していた情報メディア系の大学に落ちて、友人が行く福祉系の大学について入ったのがきっかけでした。授業が始まっても最初は良く分かってなくて、卒業してからも一般企業に就くつもりだったんです。

入ったからには取れる資格は取ろうと思って授業を受けていましたが、元々歴史が好きだったので、授業で出てくる福祉の歴史や成り立ちの話は面白いなと思って聞いていました。

それでも、どんな企業に就職したらいいのか悩んで、大学のキャリアセンターで就職先ないかなってPCで見てたら、そこのキャリアセンターの相談員に声をかけてもらって、相談してみました。

臨床心理士のキャリアカウンセリングだったんですが、精神科の授業は面白いと思うと話したら、精神科病院のボランティアを勧められたんですね。興味あるなら何かやってみたら?と言われて、おぉそうだな、と思って実際にボランティアを始めました。デイケアの患者さんたちと将棋やカラオケをやっていましたね。

転機になった病院実習

   
大学では、3回実習に行きました。2,3年で特別養護老人ホームに行って、4年生で精神科病院に行ったことが大きな転機になりました。

その病院で、十数年入院している患者さんで気のいいおっちゃんがいたんですね。なんかその時にかなり興味持って惹かれて、「なんで入院してるんだろ?」「この人全然退院できるやん」って思ってたんです。

「なんで退院できない?おかしいんじゃない?」「なんで退院しないの?」って聞いたら、俺には無理だよなんて言葉が返ってくる。

それでも「なんで?なんで?」と言っていたら、実習担当者のソーシャルワーカーがその言葉をが拾ってくれたんですよね。「あなたとの関係性ができて、言葉は届いてるんじゃないかな」「やってみたら」と支持的にかかわってくれました。

「退院できるんじゃないの?」「できると思うよ」と言ってたら、大学卒業後に、その人は退院してたんです。夏祭りで出会って、退院できたよってご本人とお話しました。

その実習が終わるころには、もう精神科病院に就職しようって決めてましたね。

就職したのは、単科の精神科病院でした。いや~大変でしたね(笑)知識がなくて大変でした。

事務の仕事もしつつ、ケース担当制でソーシャルワーク業務をしていました。外来でも入院でもその人の担当になったらずっと担当というスタイルだたので、外来~入院~訪問看護の対応をして、長く1人の人を見続けるかかわりをさせてもらいました。すごくいい経験になったと思います。

1年くらいで精神科デイケアに異動になりましたが、そこでは面接室ではなくて、できるだけその人の素に近い状況で一緒に卓球をしたり、コーヒー飲んだりしながらのかかわりは、今の仕事のベースにもなっています。 

デイケアには3年ちょっといたんですが、病院にいたドクターと一緒にクリニックを立ち上げました。

依存症専門医療機関に指定されたクリニックでしたが、病院でも経験していたデイケアのプログラムの他にも、復職支援や訪問看護、自立支援医療や年金申請の手伝いまで何でも行いました。

一番大きかったのは、病院の時と患者さんの層が変わって児童精神科の分野にも関わり始めたことです。ひきこもり、不登校、ネット・ゲーム依存が主訴の小学校~高校の生徒の親御さんからのご相談が多かったんです。

自分自身も専門的なことを学んで、家族会を立ち上げて心理教育をするなど親御さんが集える場所を一から作りました。

病院の時は何度も入院されるなど、はっきりと依存症の診断の人がほとんどでしたが、クリニックになると、依存症疑いの状況でご家族が相談にくるんです。

入院して心身の健康、生活の基盤を1から整えていくいわゆる依存症の支援ではなくて、「その人本人が依存する対象に傾倒する時間をつくることで、なんとか自分を保っている」という状況をどうサポートしていったらいいのか。その子と親との関係性の中で一緒に悩みながらやっていくことを医師と役割分担をしながらかかわっていきました。



0から1をつくる作業は、答えがない。ほんとに試行錯誤でした。今思えば、専門的なソーシャルワーク以外の細々としてところも多かったので、新しいものを作り上げていく作業をなんとか形にしなきゃという想いが強すぎて、しんどくなり転職を考えました。

営業をしながら、ソーシャルワーク


福祉業界から一度離れようと思っていたんですが、どこか離れきれなくて福祉の住宅改修をやっているリフォーム会社の営業職に転職しました。

営業の仕事も面白かったですね。リフォームのニーズ把握、アセスメント、できることできないことの説明なんかはソーシャルワークと大きくは違わないので面白かったです。

でも、その中でも、リフォームのことだけじゃなくて福祉相談にのることがあって、それはケアマネさんと話した方がいいかもね、こういう制度ありますよ、なんて説明したりもしていました。

その時、あー自分はやっぱり福祉の仕事が好きなんだなと感じたんです。福祉と繋がっていたいなという気持ちもまた生まれてきて、営業の仕事をしながら成年後見の複業もスタートしました。


独立することで、これまで諦めてきたことができると思う


そんな中、子どもも生まれ、営業の仕事は勤務時間すごく長かったので、福祉の仕事に戻ることを考えた際、独立するという選択肢を考え、今は成年後見人とスクールソーシャルワーカーの2つでフリーランスのソーシャルワーカーとして働いています。

今でもずっと独立を続けていくかどうかは分からないなと思っていて、またどこかのタイミングで組織に戻るかもしれません。組織に属してやれることはたくさんあるなと思うんです。どこどこ病院のの●●ですと後ろ盾を持って活動できる。

一方で、組織にいたからできないこともありました。クライエントのニーズ1つ1つに入って深堀していくことは、効率的ではないからやれない。でもそこに違和感がありました。僕が勉強してきたソーシャルワーカーってそんなんだったかなという想いがどこかにあったんです。

独立することで、必要だけどこれまで諦めてきたことができると思っています。

スクールソーシャルワーカーを選んだのには、クリニック時代にかかわったの子どもたちとの経験が大きいです。実際やってみると、難しさはいっぱいありますね。医療機関では、ソーシャルワーカーが元々いた場所に就職して活動していましたが、教育の分野ではソーシャルワークという意識がないんです。共通語だと思っていたことが共通語でない、向いている方向が違うという体験もあり、苦しいこともあります。

多くのスクールソーシャルワーカーが苦しい想いをしているということは、同じように苦しい想いをしている子どもたちがたくさんいるということだと思うんです。

だったら、全然開拓されていないところにも入っていって、苦しい想いはしたほうがいいなとも思います。そうすることでこれまで苦しい想いをしてきた子どもたちを何とかしていけるかもしれないと。

これからは、スクールソーシャルワーカーをやっていく中で不登校の問題、学校の年齢を超えた引きこもりなどの地域課題に対して地域の中で社会資源をつくるアクションもしたいと思っています。

また、自分自身が職能団体に助けられてきた経験から、コロナ禍もあって職能団体というソーシャルワーカーの社会資源が活用されていない、という問題をなんとかしたいと思っています。

職能団体だからできるソーシャルワーカーのニーズを吸い上げて整理をして市議会、県議会に情報を上げていくことや、労働環境を良くしていくことへの提言などもできないのかなと思っています。

職能団体への参加の賛否は耳にしますが、数を合わせてやっていくことで、必要なことを実現できることは広くなりますよね。ミクロで頑張っている支援者の普段の苦しさを団体を使って上の方で挙げていきたいです。職能団体ならではの価値の提供が必要だと思います。

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趣味はコーヒー。家での事務作業も多いので、飲みながら仕事をしてますし、新しくできたカフェでもどんなコーヒーがあるか飲みに行ったりします。酸味のあるコーヒーが好きで、家ではハンドミルで挽いて、ペーパードリップで飲んでます。


ソーシャルワーカーの勉強をする中でいい人間になれたなという想いがソーシャルワーカーを続けるモチベーションの1つです。

それまでは、精神疾患に対しても結構偏見にまみれた人間だったと思うんですよ。でも、そうじゃないんだなぁと自分の中で壊れていったことで少し、人に優しくなれたなぁと思います。

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出口さんの今の支援にも生かされている学び

●本人のリカバリー100の支え方
デイケアにいたときに、自分自身の人生の選択を自分で決定していく「リカバリー」という概念を勉強したことは、今でも支援の中心になっています。